君は消えた。
何処かへ堕ちた。
世界は救われ大団円。
それはとても幸せなバッドエンド。
ねェ聞いてる、なんて言ったってもうお前は何処にも居なくて、
ぽっかりと空洞の開いた心の中には勿論誰も居なかった。
夢だったと言い聞かせたい衝動はけれど其処此処に残る傷跡に突き動かされない。
どうしようも無い。
世界の破滅は免れて、
世界は光に救われた。
ラスボスは世界の果てに追放されて、
残された僕は其れを憂いた。
これをハッピーエンドというのなら、それは只の御伽噺だ。
世界は救われ僕は救われない。
なんて幸せなバッドエンドだろう。
残された僕には皮肉めいたその言葉がよく似合う。
消えていった君にも揶揄を含んだその言葉がよく似合う。
『幸せなバッドエンドだね。』
僕はお前を手放したくないだけなんだ。どんなに酷い目に合わされたか数え切れず、どんなに辛辣な言葉を吐き捨てられたか計り知れない。けれどどんなにお前が極悪人だったとしても、僕にはもうお前しかいない。
『手癖の悪い宿主様だな・・・』
すぅ、とその手が僕の頬を滑る。奇妙な程優しい手つきだ。その手に何度打たれたか判らない上にその手に何度絞め殺されそうになったかも覚えが無い。それでも僕はこいつを手放す事が出来ない。勝手に友人の部屋からこいつの宿る千年輪を持ち出したのだって、その為だ。友人達が僕の為を思い輪と隔離していた事もちゃんと頭では判っていたけれど、それにも勝る強い思いが友の厚意を裏切っていく。
お前は知らないだろう。どんなに僕が依存しているかなんて。
『呆れた?』
相変わらずするすると頬を撫でる手つきに溶かされそうになりながらそう言うと、お前は口の端を吊り上げて笑った。何時もの顔だった。
『まさか。その逆さ・・・』
そう言うと撫で付けていた手が頬の上、ぴたりと止まった。添えられているだけの手に奇妙な安心感すら覚える。知っているよ、呆れる筈が無い事を。君の前世を僕に垣間見て寧ろお前は喜んだ筈だ。勝手に部屋から持ち出すなんて悪い宿主様だな、と言いながら、僕の行動を面白がった筈だ。
だからこそ、今日はこんなに優しい。
明日お前に殴られたって、蹴り飛ばされたって、僕にとっては本望だ。
今この瞬間上機嫌なお前の気紛れな優しさに、また、募る思いがそれでも手放したくないと悲鳴をあげるから。
『お前は最高の宿主だぜ。』
くく、と笑ったと思えば頬に添えられていた手に力が篭る。ああ、やっぱりこれだからお前を手放す事が出来ないんだ。どんなに酷い目に合わされたか数え切れず、どんなに辛辣な言葉を吐き捨てられたか計り知れない。けれどどんなにお前が極悪人だったとしても、それでも僕には何の関係も無いんだ。
数秒後に落とされる口付けが僕の思考を全て攫っていくと、知っているから。
極上の褒美に、より一層お前から離れられなくなると、知っているから。
こんな関係間違いだ、なんて言わないで。
僕にはもう、お前しかいない。
目の前に居るのは僕に瓜二つなお前と瓜二つの別人だ。
ややこしさに頭がこんがらがり、大きな理念ががらがらに崩れて気が付けばゲシュタルト崩壊寸前だった。
どんなに此れは誰だと頭を捻っても偽者にしか思えない。目の前のお前は替え玉だ、そうだろう。
だって何処か違う気がする。
何処が違うかは説明できなくても、心が否定する。
『誰だよ、お前。』
『・・・宿主・・・何言ってんだ・・・?』
怪訝な表情で僕をかく乱しようとする偽者に、僕は思い切り冷めた視線を送った。そんな演技に騙される僕じゃない。僕の身体を借りて生まれた化け物の、けれどさらにその身体を借りた化け物め。僕には判っているんだ。この目の前の偽者は、僕を錯覚させてアイデンティティを失わせようとしているのだ。そうでなくともあいつが存在しているおかげで僕の存在は確立されているかも怪しいというのに。
『返してよ、僕の。』
僕の、化け物を。僕の身体を乗っ取った悪の化身を。
僕にとっては邪魔な存在だったけれど、瓜二つの別人よりはきっと必要だ。
『どうしたっつーんだよ・・・!』
困惑極まりない、なんて灰紫の瞳が物語っている。虹彩が瞳孔の開きに比例して肥大し、僕の心理を捕らえようと推し量っている。
『やめてよ、お前じゃないんでしょ・・・!』
頭がこんがらがりそうだ。
その瞳は僕の知っている瞳そのものだったから、白々しいにも程が或る、と一喝するにはダメージが大きい。
その瞳でみつめないで。
全く同じ瞳で見据えないで。
寸分違わぬ粗悪品のくせに。
『・・・宿主!』
ぎゅ、と抱きしめられて喉元まで出かけた言葉がひっこんだ。ぴたりと止んだ僕の抗議にお前は安心させようと僕の背を擦る。優しい手つきで。
『俺様が、別の誰かな訳ねェだろ。落ち着け。』
悪い夢でも見たのか、と続けて、相変わらず僕の背をゆるやかに撫でる手に、意識は冴え渡る。
浅はかなことを口にした。
『そうだね、ごめん。』
これは口にすべきではなかったのだ。僕の心の内での葛藤を、いくら偽者に話したところで正体を明かす筈なんて無いんだもの。
お前はやっぱり偽者だよ。そっくりそのままコピーされた別人だ。
けれど偽者がはいそうですか、なんて言うはずがない。
僕はやっぱり騙されないよ。
お前はやっぱり本物では無いんだ。本物がこんなに優しい筈は無いんだもの。
カプグラ症候群、とふと過ぎる言葉の意味は実の所僕にはよく判らないけれど、この疑念を言葉にするなら、きっとこれが一番しっくりくる。
普段は熱を持たない存在でも、此処に居れば何時でも熱を感じる事が出来る。
ぴたりと同じ平熱を持つ二つの身体は当然のこと、どちらかに熱を奪われるという事はない。
ちょうど36度きっちり、平熱のままお互いに干渉しあったって過不足はない。
『心の部屋って便利だよね。』
くす、と笑みを零してそう告げると、擦り寄る身体が其の言葉にぴくりと反応した。何をするでもなく頻繁に此方へ来てしまうのは、この意味の無い瞬間がとても愛おしいからだ。
ただ抱き合って無意味に時が過ぎていくだけの此の瞬間が堪らなくお気に召しているから。
ぬるいぬるい体温はどちらが高いとか低いとか、そういった格差を齎さない。ひたすら同じ熱を共有し、36度を平行線で保つだけ。
熱を分け与える、なんて出来ないけれど、此のぬるい腕の中は温度差を持たないからこそ心地よい。
『お前、あったかいし。』
『・・・体温一緒じゃねェか。』
何を言ってるんだか、と呆れた口調で返される。声のトーンは君の方が若干低いけれど、質は変わらず同じものだった。勿論寸分狂わず同じ身体なのだから声帯も同じに決まっているけれど、それでも其の声が、ぬるい体温と同じくらい居心地の良さを醸し出している。
君の声すきだなぁ、とぼんやりと思った。
相変わらず熱はちょうど同じだけ、溶け合うように1分の狂いも無い。
たとえば僕の方が体温が高かったなら、お前を暖めてあげられるけれど、
たとえばお前の方が平熱が上だったなら、その熱を分けてもらおうと思うけれど、
生憎と僕達はきっちり36度の体温を上手い具合に保ち続けていた。
どちらがどう、なんて異種の存在でない僕達にはおおよそ無意味な仮定だった。
ぬるいぬるい腕の中。
けれど此のぬるさが齎すゆったりとした心地よさが、浸るには調度良い。
暖かくも冷たくも無い腕に依存して、僕はまたお前に溶かされていく。
お前の存在が僕の心の部屋を温めているから、それで良かった。
『やっぱり、あったかいよ。』
はらはらと花びらが散り落ちる。もう葉桜の季節になるのか、とぼんやり感慨に耽った。今はまだ過ごしやすい気候だけれど、蒸し暑い夏はすぐそこだ。夏は嫌いなんだよね。大嫌いな夏を乗り切るには、一日中空調の効いた部屋でだらだら過ごすに限る。
『・・・んなんだから白いしほせェんだよ。』
それでも日本男子か!と訳の判らない説教がすぐ隣りから聞こえてきた。うるさいなぁ。大体お前に日本男子を語られたくはない。だから、良いじゃない僕の勝手だ、と言うと“お前一人の身体じゃないんだからな”なんて誤解しそうな台詞を返される。お前は妊婦を気遣う愛妻家か!とツッコミ返してやりたい衝動に駆られた。
花びらは相変わらず頭上にひらひらと舞い落ち、それがお前の透けた身体を突っ切って地面にぽたりと落ちる。
『暑いの嫌いなんだよ。太らないし。そういう体質なの。』
『体質って言葉で正当化すんな。』
『えっ何のこと。』
『宿主・・・お前なぁ・・・。』
すっ呆けてみると、お前は何とも言えないまぬけな顔で僕を見やった。あ、その顔面白い。率直にそう言うと、思いっきり振りかざした拳が僕の身体をすり抜けた。多分殴ろうとしたんだろうけれど、そんなの無意味だよ。貫通してもダメージは0だ。
僕の身体を乗っ取ったオカルトな存在は、普段は意外と面白い奴だったりする。飽きない、というべきだろうか。こうして会話してみると案外楽しかったりするから、僕は意外と饒舌だ。ぱっと見は自分そっくりだけれど顔つきはまるで違う。背格好は全て同じ。なかなかにシュールな関係性だと思わないか。
『お前に拒否権はないの。』
続けて、僕の身体を好き勝手弄んでるんだからっ!なんて芝居がけて言うと、途端真っ赤な顔で慌てだした。
『誤解されるような事言うんじゃねェ!!』
意味が違う!と大仰に慌てだす顔がなんだか新鮮で、思わず噴出しそうになる。何それ。大体お前だって先刻誤解されそうな台詞を吐いたばかりじゃないか。自分の事になるとてんで無自覚なんだから、もう。
『あはは、ごめー・・・』
ん、と最後の一言を告げる直前に、突風が舞い降りた。本当に突然だった。びゅうう、と僕とお前の間を通り過ぎ、それは桜並木をも揺らす。
薄桃色の花びらが僕の頭上にはらはらと落ち、お前とは違って実体を持つ頭上には花弁が何枚か取り残された。お前はと言うと、花びらは其処に何も存在していないかの様に、変わらず無常にもすり抜けていく。
それがお前と僕の違いをはっきりと物語っていた。
お前はドッペルゲンガーだと。
『宿主、』
突然、だった。お前が幽霊みたいに実体が無い事も、理解しているのに。どんなにその手が僕を貫通しようと、どんなに花びらが通り過ぎていこうと、平気だったのに。
『宿主。』
比べてしまうと、駄目だった。自分の頭の上に降り積もった花びらが、お前には降り積もらないとあざ笑っていた。
君の腕が僕を貫通しても、僕にも実体が無いようなそんな気分だったんだ。
君の身体をすり抜けていく花びらが、自分にも同じように通り過ぎていたのかと錯覚するかの様に。
そんなこと或る筈なかったんだ、なんて今更かな。
『・・・泣くなよ・・・』
ぎゅぅ、と抱きしめてくれている筈なのに、感触はやはり無い。僕の身体も透明だから大丈夫だよと何時もなら思うのに、今だけは自分の体の輪郭をはっきりと感じ取ってしまう。思い込みは恐ろしいものだ。急激に知覚したドッペルゲンガーの存在が僕の涙腺を崩壊させた。僕が暑さにまいっているとき、お前はまるで熱なんて感じないんだろう。僕の身体を乗っ取って初めて夏の暑さを理解するのだ。
同時に感じることが出来ないなんて、それはとても皮肉だと思う。
先刻の風が嘘の様に風一つ無い桜並木の道で、1人ぽつんと突っ立って泣いているように周囲には見えるのだろう。
本当は、お前が此処で抱きしめてくれているというのに。
『暑いの、嫌いなんだ・・・。』
『ああ。』
『太らない、し。』
『ああ。』
『体質、だから。』
『ああ。』
『お前に、拒否権なんてないよ・・・。』
『・・・知ってる。』
ぎゅう、と相変わらず抱きしめてくれている筈のお前に、嗚咽を漏らしながら同じ台詞を繰り返した。
夏が来たら、また君との温度差を感じてどうしようもなくなる日がきっと来るよ。外に出たら嫌でも気付いてしまう、お前との距離が腹立たしいよ。ねぇだから、やっぱりずっと閉じこもろう。一日中部屋の中で外界と隔離されてしまえば、きっと大丈夫。
薄桃色の花々が葉桜になり、セミが鳴きだしたら、僕らは2人きりになればいい。
そうして境界線が曖昧になったら、溶けていこうね。
お前には、拒否権なんて存在しないんだから、僕の申し出を断るわけにはいかないんだ。
相変わらず零れ落ちる水滴を拭って、僕はそんな事を思った。
もうすぐ、夏が来る。
ばくばくは結婚して第三子おめでたくらいいってる。
と思ってるぐらい頭沸いてる。でも書く小説は全くそんなことはなく、たいがい甘くない。
でも甘いのもあるよ。
ほぼバク獏でたまに他。みたいな感じ。